『セクレタリー』(2003)

監督:


この映画を一言ってしまえば、単純に恋愛もののソレに他ならない。


主人公であるリーとエドワードが互いに、一般の人々には理解できない性癖を持っているというだけで、取り立てて目新しいものはなかったように思う。互いにその性癖を持っている者同士が首尾よく出会ったわけであるから両者がいづれ結びつくであろうことは容易に想像できる。(だってジェームズ・スペイダーだし)自分のことをオカシイと自覚している人間同士であればなおさらである。容易に相手を信用することができない、欠陥人間だったとしても心はあるわけで。ソレが次々と秘書たちを変えていくエドワードの自らの異常性の自覚であると私には思える。


リーについては一見従順でエドワードに隷属しているかのようにも窺えるが、実はリードしているのは彼女のほうではないだろうか。彼女はエドワードに告白することで服従を示してみせるが、実際その戦いから降りたのはエドワードのほうであり、彼はリーの執念に根負けしたのである。エドワードに絶対的な服従を見せ付けることによて彼を完全に彼女の手中におさめたのだ。チェーホフの戯曲『かもめ』の「これで完全に私のものになった!」というアルカージナのセリフを思い出させる。


この時点で、両者の関係は逆転したといってもよい。この映画がフェミニストが云々いう人たちもいるだろう。確かに映画の中にはそのようなメッセージがこめられているのかもしれない。それを見過ごすことは、大きな誤りであり、製作者を蔑ろにするものなのかもしれない。しかし、時としてそのようなメッセージが単純に物語をつまらないもにすることもある。まずは物語を楽しもう。そこから、最後に不適にカメラを見据えるリーの心をさぐりたい。とか。