行為と責任

fleurette2011-05-26



 先日あるブログを読んでからずっともやもやとしたものが胸の中で支えていて、コメントしようかどうしようかと悩んでいた。ふだんコメントを書くことにあまり躊躇したことなどない私が悩んだのは、それがたぶんどうやっても批判的に受けとられてしまいそうな内容になりそうだったからだ。それに、そのブログを知ったのは2、3ヶ月前のことで、読み始めて日が浅いということもあった。

 日記からはその方が大変な経験をし、またそれを乗り越え現在に至っていることも知り好感を持っていたし、私とは育った環境から現在にいたるまで接点などどこを探しても全くなさそうに思うのだけど、日常を綴った時にふと見せる目線の低さというか繊細さに共感し、楽しみにもしていた。その日記を読むまでは。

 それには、ある過激な行為がサラっと当然のように書かれていた。もしご本人が他人からされたら、さっと血の気が引いて激怒するのではないだろうかと思われるようなことだった。しかしその方は、なぜその時そんな行動をとったか、という理由を延々書かれていたのだが、最後まで自分が行った無礼極まりない行為に対する反省は微塵もなかったのだ。

 なんだか尻切れトンボのように終わってしまったような不快感がずっと尾を引いた。あの説明は、日記に書かれる前に、また無礼な行為をする前に、相手に話して聞かせるものだったのではないだろうか、と思った。なぜなら、その日記の中で相手の方がそんな無礼な仕打ちを受けるほどの非があったとはとても思えなかったからだ。たぶんそういう正義感を振りかざす人は身の回りに五万といるはずだ。その方がいったい何才の時の出来事なのかはわからないが、締めくくりの言葉からは、その冷酷な行為を他人にしたという事実とはまだ向き合っておられていないように感じた。それが残念で残念でしかたがなかった。

 何日かして、そのくだりの日記にスターがついてるのを見てなんだかまた気持ちがグラグラ揺れだした。スターをつけた人たちはいったいどんな気持ちでつけたのだろう?と聞いてみたくなった。やはりここはコメントしておくべきかなとも思ったが、当のご本人は多忙極まりないご様子だったので、煩わしい思いをさせても申し訳ないし、とにかく私は読者としてはほんとに日が浅いので、ひょっとしたら私の方に誤解があるのかもしれないと静観することにした。ただ、私のような感情を抱いた人が他にもいたとしたらやっぱりそれも残念で、変な表現なんだけど、とてももったいないと思った。

 過去を振り返って内省するなら、その時の感情だけ掘り起こすのではなく、自分がした行為そのものも客観的に見つめ直したところまで言及できなければ、その体験から学んだものもは何も無く、わざわざ振り返る必要すらなかったように思えた。元ヤンのお兄ちゃんが酒の席で垂れる武勇伝と大差ない、と言ったら…、やっぱり言い過ぎか。でも、その行為は私にはそのくらいの衝撃を受けるほどえげつないものだった。ショックだった。

 そんな気持ちを悶々と抱えていたせいか、チキウさんの日記(5/26)に繰り返し書かれていた、「自分自身の瑕疵と対峙できなければ「良い人」になるきっかけは永遠に訪れない。」、「自分自身の振る舞いをどう総括するのか、その瑕疵を受け入れることができるのか。繰り返しになりますが、その瑕疵は「私が」背負う以外に行き場がなく、決して第三者に委ねることはできない。遅かれ早かれ「私は」、それと対峙しなければならないのです。」、という文章に、なんだか胸のすく思いがしたのでした。


今日の花 : ヒメキンギョソウ